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24 关系: 加藤定吉,千代田號防護巡洋艦,大勳位菊花大綬章,大勳位菊花章頸飾,大日本帝國海軍軍人列表,定麿王,小松宮彰仁親王,小松宮依仁親王,东伏见宫,伏見宮貞愛親王,伏見宮邦家親王,北白川宮能久親王,片冈七郎,高千穗號防護巡洋艦,軍事參議院 (日本),東伏見慈洽,橫須賀鎮守府,春日號裝甲巡洋艦,浪速號防護巡洋艦,海軍元帥,日向號戰艦,日本元帅,日本童軍總會,日本海军大将列表。
加藤定吉
加藤定吉(加藤 定吉 かとう さだきち/ていきち,大日本帝国海军军人、華族,1861年12月19日(文久元年11月18日)出生于东京,1927年(昭和2年)9月5日逝世。服役时间历明治、大正两朝,第一次世界大战期间率领第二舰队进行了青岛封锁战。最终军阶为海军大将。受封従三位、、功二级、男爵。.
千代田號防護巡洋艦
千代田号防护巡洋舰()是旧日本海軍的防护巡洋舰#達明治21年9月p.12『達第九十九號 英國ニ註文セル巡洋艦ヲ千チ代ヨ田ダト命名セラレ風帆練習艦第一回漕ヲ館タテ山ヤマト改名セラル此旨心得ヘシ 明治二十一年九月廿七日 海軍大臣伯爵西郷從道』(日本海军法令上分类为三等巡洋舰)。 本舰的建造目的,是为了代替之前失踪的畝傍。本舰作为日本联合舰队的其中一员参加了甲午战争与清朝北洋舰队作战,大多从事侦察等辅助任务。后来先后改为海防舰、鱼雷母舰(又称鱼雷艇补给船,水雷母艦)、潜艇母舰(又称潜艇鱼雷补给船,潜水艦母艇)、训练船,最后作为靶舰被击沉。 本舰的舰名来源于江戶城的别称“千代田”(意谓“流传子孙千代的土地”)#幕末以降帝国軍艦写真と史実第17コマ(原本11頁)『千代田形(ちよだがた) 艦種砲艦 二檣「スクーナー」型 艦名考千代は徳川幕府の治所江戸城(現今の宮城)の別稱なり、艦名の下に「形」の字を付したるは其形式(タイプ)を意味するものならん、幕府時代の船舶中、伊豆下田に於て建造せるものに君澤形、長崎に於て建造せるものに長崎形の名のあるを見る、蓋し同指なり。艦歴本艦は外國人の手を假らず本邦人に依て設計建造せられたる最初の蒸汽船なり、文久2年戌年5月起工、同3亥年7月進水、慶應2寅年5月竣工即ち進水より竣工まで約3ヶ年を費したるは、其間機關計畫者和蘭國へ出張の事あり、歸朝後、機關据付を爲したる等、工程に遅延を生ぜしことありしに由る。明治2年5月函館の役に於て官軍に収容せられ爾來帝國軍艦籍に在りて種々の役務に服せしが、明治21年1月除籍せられ、船體は之を千葉縣に交付せり。(要目略)』#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ37(原本46頁)『千代田(ちよだ) 艦種巡洋艦 三檣(戰闘檣あり) 艦名考前掲「千代田形」の項(p.11)参照。艦歴亡失艦畝傍代艦として建造せられたる艦にして明治14年4月11日本邦に到着。明治27・8年戰役從軍:同27年8月威海衛砲撃に、同9月黄海々戰に、同11月大連港及び旅順口占領に從事、同28年2月威海衛總攻撃及同地占領に從事、同3月澎湖島攻略及同島占領に從事、同31年3月三等巡洋艦に列す。同37・8年戰役に從軍(第六戰隊):同37年2月9日仁川沖海戰に参加(艦長大佐村上格一)、同38年5月日本海々戰に参加(艦長大佐依仁親王殿下)、大正元年8月2等海防艦に編入。同3年乃至9年戰役に從軍:大正3年8月青島戰参加(艦長中佐島内桓太)、同8年12月第三艦隊に属し南支那海方面警備、同10年水雷母艦に編入、同11年4月1日軍艦より除籍、特務艦となり、昭和2年2月28日特務艦籍より除かる。―要目― 長308呎/幅43呎/吃水17呎/排水量2,450噸/機關 三聯成汽機2基雙螺旋ベルビル罐12/馬力5,400/速力19/乗組人員350/船材 鋼/兵装 12拇安式速射砲 10/47粍砲 14/備砲 3/發射管 3/起工 明治21-12-4/進水 同23-6-4/竣工 同24-1-1/建造所 英國グラスゴートムソン會社』,继承自幕末炮舰『○海軍省丙第九拾號 海軍一般 今般佛國ヘ新造注文セシ軍艦ヲ畝ウネ傍ビト命名ス此旨爲心得相達候事 海軍卿 川村純義|○海軍省丙第九拾壱號 海軍一般今般横須賀造船所ニ於テ製造スヘキ一等砲艦ヲ愛アタ宕ゴ 巡洋鉄艦ヲ高タカ雄ヲト命名ス此旨爲心得相達候事 海軍卿 川村純義○海軍省丙第九拾貳號 海軍一般 東海鎮守府所轄千代田形艦自今豫備艦ト相定ム此旨相達候事 明治十七年六月五日 海軍卿 川村純義』。此后该名字又多次得到利用,包括太平洋战争时期的日军轻型航空母舰和战后日本海上自衛隊的两艘潜艇救援船。.
大勳位菊花大綬章
大勳位菊花大綬章(大勲位菊花大綬章,Grand Cordon of the Supreme Order of the Chrysanthemum),日本勳章的一種。僅次於大勳位菊花章頸飾。1876年制定,2003年11月3日更正。.
大勳位菊花章頸飾
大勳位菊花章頸飾,日本最高等的勳章。1888年1月4日制定,2003年11月3日更正。因為是做為頸飾所以才以此命名。.
大日本帝國海軍軍人列表
大日本帝國海軍軍人列表為大日本帝國海軍軍人各階級・晉階年月日列表(含逝後追授階級)。.
定麿王
#重定向 東伏見宮依仁親王.
查看 東伏見宮依仁親王和定麿王
小松宮彰仁親王
小松宫彰仁亲王(),日本弘化三年生,宮號初為仁和寺宮,後改东伏见宫,再改小松宫,是仁孝天皇猶子,生父為伏見宮邦家親王,日本皇族。官位元帥陸軍大将大勲位功二級。 明治元年(1868年)任军事总裁,后拜征夷大将军。明治三年(1870年)赴英国留学,明治五年(1872年)回国。明治七年(1874年)二月,任征讨总督。乱平后,九月任陆军少将。十年(1877年)任校长兼东京司令长官。十三年(1880年),任陆军中将,近卫都督。二十三年(1890年)擢陆军大将。二十四年补近卫师团长。明治三十一年(1898年)晋升元帅,三十六年(1903年)病死。葬於。.
小松宮依仁親王
#重定向 東伏見宮依仁親王.
东伏见宫
東伏見宮是伏見宮邦家親王的第17王子依仁親王在明治時代後期創立的宮家。伏見宮家之分家。 二次世界大戰後,日本投降,由盟軍軍事佔領,1947年因駐日盟軍總司令部(GHQ)指示,伏見宮、東伏見宮、閑院宮、久邇宮、山階宮、北白川宮、梨本宮、賀陽宮、朝香宮、竹田宮、東久邇宮等宗室子弟皆被臣籍降下,罷為庶人。 東伏見宮僅限一代,但是祭祀受到繼承。.
伏見宮貞愛親王
伏見宮貞愛親王(安政五年四月二十八日(1858年6月9日)- 大正十二年(1923年)2月4日)是一位日本皇族與陸軍軍人。他是伏見宮邦家親王第14王子,母親為鷹司政熙之女鷹司景子。為伏見宮第22代以及第24代親王,其官位為元帥陸軍大將大勳位功二級内大臣。.
伏見宮邦家親王
伏見宮邦家親王(ふしみのみや くにいえしんのう,)是江戸時代末期的日本皇族,伏見宮第20代以及第23代當主。伏見宮貞敬親王第一王子,崇光天皇的十四代孫。幼名睦宮(まさのみや)。 邦家親王是1947年皇籍離脱時,被剝奪皇族資格的11宮家成員的共同祖先;他的曾孫女香淳皇后是天皇明仁的母親。.
北白川宮能久親王
北白川宮能久親王,(弘化四年二月十六日-明治二十八年十月二十八日,即),德川幕府末期至明治時代的日本皇族、日本陸軍軍人,他是伏見宮邦家親王的第9子,生母是堀内信子。幼名滿宮(みつのみや)。 曾赴普魯士留學,任中將近衛師團長,一般稱之為北白川宮能久親王或能久親王。乙未戰爭攻臺時死亡,追贈大將。.
片冈七郎
片岡七郎(かたおか しちろう),嘉永6年旧暦12月14日(1854年1月12日) - 大正9年(1920年)1月11日),日本明治时期的海軍軍人。海軍大将军衔。男爵。位階正二位。.
高千穗號防護巡洋艦
千穂号防护巡洋舰()是旧日本海軍最初两艘防护巡洋舰(二等巡洋舰)之一,为(日方称为“浪速型防護巡洋艦”)的2号舰。 高千穂号与其姊妹舰浪速號在甲午战争中作为日本联合舰队的重要战力与清朝北洋舰队作战;随后参加了日军在臺灣地区的一系列军事行动。在10多年后的日俄战争和第一次世界大战中,已经显得老旧的高千穗号作为辅助力量也参与了日军的作战,最终在青島戰役期间受到德国鱼雷艇袭击而沉没#幕末以降帝国軍艦写真と史実第31コマ(原本34頁)『高千穂(たかちほ) 艦種巡洋艦 二檣(スクーナー) 艦名考山名に採る、高千穂峯は霧島山東嶽の古名なり(霧島の條参照)。艦歴明治17年3月英國安社に於て起工、同19年7月横濱に來着。同27・8年戰役に從軍:同27年8月威海衛砲撃に、同9月黄海海戰に、同11月大連港及旅順港占領に参加。同28年2月威海衛總攻撃及同占領に、同3月澎湖島攻略に参加。同31年3月巡洋艦二等に列す。同37・8年戰役從軍(第四戰隊):同37年2月仁川沖海戰に、同8月蔚山沖海戰に参加。同38年5月日本海々戰に参加(艦長大佐毛利一兵衛)。大正6年海防艦二等に編入す。同3年乃至9年戰役に從軍:〃3年8月青島戰に参加(第二艦隊、艦長大佐伊藤祐保)、同3年10月膠州灣に於て敵水雷艇(S90號)の雷撃を受け爆沈す(艦長同前)。 ―要目― 長300呎/幅46呎/喫水18呎7吋/排水量3,759噸/機關 横置二聯成汽機2臺、雙螺旋、圓罐/馬力7,600/速力18.5/乗組人員357/船材 鋼(防禦甲板51粍)/兵装 26拇克砲2/15栂克砲6/6听ノルデン砲2/備砲14/發射管(水上)4/起工 明治17-3-22/進水 同18-5-16/竣工 同19-4/建造所 英國エルスウィック安社』。本舰因此成为了日本海军中第一艘因为受到敌军舰艇攻击而沉没的主要军舰。 本舰的舰名来源于日本神话传说中天孫降臨之地、亦即宮崎縣高千穗峰。.
軍事參議院 (日本)
军事参议院()是指在大日本帝国军中回复天皇重要军务咨询的国家机关。1903年设立,1945年被废止。.
東伏見慈洽
(),是久邇宮第2代当主久邇宮邦彥王的第三子,日本舊皇族兼僧人,今上天皇明仁族叔父,為皇族時稱久邇宮邦英王。.
橫須賀鎮守府
橫須賀鎮守府(よこすかちんじゅふ)是曾位于神奈川县橫須賀市的日本海軍鎮守府。通称为橫鎮(よこちん)。.
春日號裝甲巡洋艦
春日号装甲巡洋舰()是旧日本海军的一等巡洋舰(装甲巡洋舰)#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ64(原本95頁)『春日(かすが)【二代】 艦種一等巡洋艦 一檣(信號用)日進と姉妹艦なり 艦名考初代「春日」の項(p.7)参照。艦歴此艦は元亞爾然丁國の軍艦「リヴァダヴヰア」なり、伊太利に於て建造中、明治36年12月30日帝國政府之を購入す、同37年1月1日「春日」と命名、同月7日領収、同年2月16日横須賀着(回航委員長中佐鈴木貫太郎)、同37・8年戰役に從軍(第一戰隊):同37年10月黄海々戰に参加(艦長大佐大井上久麿)、同38年5月日本海々戰に参加(艦長大佐加藤定吉)、大正3年乃至9年戰役(日獨)に從軍:同3年10月第三艦隊に属し中南支方面の航路警戒通商保護に任ず(艦長大佐奥田貞基地、同坂本重國)、同5年7月特別任務の爲め日進と共に浦鹽に回航、特殊貨物搭載、加奈陀「エスカイモルト」に回航(艦長大佐中里重次)、同6年4月第一特務艦隊に属し支那海・印度洋方面の作戰及び通商保護任務に服す(艦長大佐大谷幸四郎、同宇佐川知義)、同9年5月北米合衆國「メーン」州合併百年祭々典参加の爲め「ポートランド」に回航(艦長大佐寺岡平吾)、同12月第二遣外艦隊に属し南洋方面警備(艦長大佐高橋宗三郎)、同10年一等海防艦に編入。同10年9月東亞露領沿岸警備の爲め派遣さる、此の任務中三笠救難作業に從事(艦長同前)、同14年12月1日運用術練習艦と定めらる。昭和6・7年事變(日支)從軍、同9年1月内外日蝕観測隊57名を南洋「ローソップ」島に輸送するの任務に從事、同年10月1日海軍航海學校設立に依り運用術練習艦の任務を解かれ、同校附属練習艦となる。―要目― 長357呎/幅61.5呎/吃水25.25呎/排水量7,750噸/機關 汽筩直立三聯成汽機3基 艦政式罐12臺/馬力13,500/速力20/乗組人員525/船材 |兵装 10吋砲 1/8吋砲 2/6吋砲 14/12听砲 20/3听砲 6/マキシム機砲 2/發射管 4/起工 明治35-3-10/進水 同35-10-12/竣工 同37-1-7/建造所伊國アンサルド社』,为春日级装甲巡洋舰(日方称为“春日型”)首舰#達明治37年1月p.1『達第二號 軍艦及水雷艇類別等級別表中巡洋艦一等ノ欄内ニ「春日」「日進」ヲ追加ス 明治三十七年一月一日 海軍大臣 男爵山本権兵衛』。春日号与其姊妹舰日进号一同为日本政府赶在日俄战争爆发前,与俄罗斯帝国竞购而得,并在此后参加了日俄战争中包括黄海海战以及对马海峡海战(日方称“日本海海戦”)在内的多次主要海战。1921年(大正10年)9月1日,日本海军将已经落伍的春日号改变舰艇类别为海防舰#達大正10年9月p.1『達第百六十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎|戰艦ノ欄内「敷島、朝日、三笠、肥前、」ヲ、巡洋艦一等ノ欄内「淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「千歳、須磨、明石、新高、對馬、」ヲ削ル|海防艦一等ノ欄内「周防」ノ次ニ「、敷島、朝日、三笠、肥前、淺間、常磐、八雲、吾妻、磐手、出雲、春日、日進」ヲ、同二等ノ欄内「武藏」ノ次ニ「、千歳、須磨、明石、新高、對馬」ヲ加フ』#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ149(原本237頁)『春日(かすが)〔再出〕 艦種海防艦 艦名考 艦歴}既に「日清戰役後、日露戰役迄の艦艇」の部に出づ(p.95)。對島(つしま)〔再出〕 艦種海防艦〔註】寫眞・要目共「日清戰役後、日露戰役迄の艦艇の部参照(p.94) ―要目―(略)』,此后一直作为练习舰进行运用。1945年(昭和20年)7月18日,在太平洋战争即将结束时,春日号在横须贺空袭中受到重创坐沉。 本舰得名于奈良县的#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ15(原本7頁)『春日(かすが)【初代】 艦種通報艦 三檣「トップスル・スクーナー」 艦名考山名に採る、春日山は大和國添上郡春日郷(今奈良市)の東に聳ち、一邑の主山なり、古より神霊の宅と爲す。北は若草山、南は高圓山、左右に脇侍するものの如し、山下に春日神社あり。 艦歴文久3年(1863)英國に於て竣工、元来鹿兒島藩の軍艦、明治3年同藩より献納、明治10年西南戰役從軍、明治27年2月除籍。(要目略)』。本舰为日本海军中第二艘使用“春日”一名的军舰。初代春日号为幕末的一艘3桅通报舰,1863(文久3年)在英国竣工,为原鹿儿岛藩的军舰,1870年(明治3年)由鹿儿岛藩献给明治政府,1877年参加了西南战争,1894年除籍。 太平洋战争前日本另有一艘客轮“春日丸”,日本海军在战争爆发后将其改装为航空母舰,并重新命名为大鹰。.
浪速號防護巡洋艦
浪速号防护巡洋舰(浪速 なにわ/なには)是旧日本海軍的第一艘防护巡洋舰(二等巡洋舰),为(日方称为“浪速型防護巡洋艦”)的首舰。 浪速号与其姊妹舰高千穂號在甲午战争中作为日本联合舰队的重要战力与清朝北洋舰队作战。在10年后的日俄战争中,已经显得老旧的浪速号只是参加了一些比较次要的战斗。 本舰的舰名来源于大阪市(原攝津國大阪)的古称“浪速”。#幕末以降帝国軍艦写真と史実第30コマ(原本33頁)『浪速(なには) 艦種巡洋艦 二檣(スクーナー) 艦名考浪華又は難波に同じ、浪速は摂津國大阪より尼ケ崎邊までの地方を總稱したる古名なり、神武天皇の御世、皇舟師此海を過ぎし折、奔潮に出會ひ其流るること太だ急なるを見て、浪速の國又浪華の國とも名け給ひたるに起因せるものなりと傳ふ、今ま難波と讀むは轉訛なりと云ふ。艦歴明治19年2月英國に於て竣工、同年6月品川灣に來着す。此艦は此時代に於ける世界優秀艦の一と稱せらる、當時「ロンドン・タイムス」紙は之に關して長文の記事を掲げたり。其の要に曰く、浪速は目下海上に浮泛せる諸國軍艦中、速力最も速く、備砲最も強勢、且つ防護最も完全なる巡洋艦なり。其の大砲及び砲架、水壓器、電燈、水雷等亦た最も新しき發明の兵器を以て艤装せられたるものなり。今後日本海及び支那海に於いて戰爭ある時は、日本海軍は該艦を使用して偉勲を建つべきことは昔日の比にあらざるべし云々と、次に記する所の高千穂亦同時に建造せられたるものにして姉妹艦なり。明治27・8年戰役に從軍(艦長大佐東郷平八郎):同27年7月豊島沖海戰に参加、敵陸軍を搭載せる英國商船高陞號を撃沈す。同8月威海衛砲撃に、同9月黄海海戰に、同11月大連港及旅順港占領に参加、同28年2月威海衛總攻撃及同占領に從事、同3月澎湖島攻略に從事、同31年3月巡洋艦二等に列す、同37・8年戰役從軍(第四戰隊):同37年2月9日仁川沖海戰に参加(第二艦隊司令官少将瓜生外吉旗艦)、同8月蔚山沖海戰に参加(艦長大佐和田賢助)。同5月日本海々戰に参加(第四戰隊旗艦、中将瓜生外吉乗艦、艦長同前)、同45年7月18日北海道に於て警備兼測量任務中擱坐沈没す。 ―要目― 長300呎/幅46呎/喫水18呎7吋/排水量3,759噸/機關 横置二聯成汽機2臺、雙螺旋、圓罐/馬力7,600/速力18.5/乗組人員385/船材 鋼(防禦甲板31粍)/兵装 26拇克砲2/15栂克砲6/6听ノルデン砲2/備砲14/發射管(水上)4/起工 明治17-3-22/進水 同18-3-18/竣工 同19-2/建造所 英國エルスウィック安社』.
海軍元帥
海军元帅(Admiral of the fleet)是海军军衔中等级最高者,在很多国家该军衔仅在战争时授予。美国海军此等级的军衔譯作海軍五星上將(Fleet Admiral)。.
日向號戰艦
日向(ひゅうが,當時由於使用舊假名遣,所以艦名的表示為ひうが)是大日本帝国海軍的戰艦,伊勢型戰艦2號艦。於太平洋戰爭中期,改造成航空戰艦,「航空戰艦」只是因方便上的稱呼,於正式的艦籍中仍為戰艦。艦名的來源為日本宮崎縣的舊國名,因此艦內神社所供奉的是來自宮崎神宮的分神。該艦名在帝國海軍只有1代,於戰後由海上自衛隊的護衛艦「日向(ひゅうが)」所繼承。.
日本元帅
元帥,於1872年(明治5年)至1873年(明治6年)的為實質的階級(陸軍元帥)。之後廢止,到1898年(明治31年)設立元帥府,並將進入元帥府之陸軍大將與海軍大將給與元帥的稱號,直到第二次世界大戰結束後廢止。目前日本自衛隊中並無相對應的稱號。.
日本童軍總會
日本童軍總會(ボーイスカウト日本連盟)是日本主要的童軍組織。1922年創立時只招收男性成員,直到1995年才開始實施男女混合制度。雖然在第二次世界大戰期間,童軍運動受到嚴重的打擊,但在戰後開始逐漸復甦,直到2012年3月為止,共有143,272名成員。.
日本海军大将列表
以下是大日本帝國海軍獲授予大將(西方稱為上將)軍階的將領列表:.